『山口小夜子』という表現者
日本人モデルとして真っ先に名前をあげるとしたら、私にとって山口小夜子さん以外にはありえません。
小学生の頃、近くの化粧品店に貼られたポスターを見た時の衝撃。
狂気もを感じさせるその圧倒的美しさに、言葉もなく心を鷲掴みにされた記憶ははっきりと残っています。
山口小夜子さんは
1949年9月19日横浜出身。
洋裁が得意な母親の影響もあり、高校卒業後、杉野学園ドレスメーカー女学院に入学。
その後1971年22歳でプロモデルとしてデビューします。
時代はハーフモデル全盛期。
髪を染めパーマをかけ外国人風メイクをするモデルが当たり前だったデビュー当時。
「自分は典型的な日本人の顔立ち。日本人女性の美しさを捨ててまでもモデルをやりたくない」と自分らしさを貫きます。
しかし山本寛斎氏に見出され、高田謙三氏らのショーでも注目を集めることに。1972年にパリコレクションに起用され、その後はニューヨークコレクションを含め数多くのランウェイで人々を魅了します
東洋の神秘を代表するミューズとして脚光を浴び、彼女を模した「SAYOKOマネキン」が欧米のブティックを席巻し、1977年にはアメリカニューズウィーク誌で「世界のトップモデル6人」にアジア人として初めて選出されました。
黒髪おかっぱ・切れ長の瞳・白い肌…まさに日本人形のイメージ。
しかし実は彼女は本来大きな二重まぶたの瞳でした。
また身長は170センチとショーモデルとしては決して恵まれているとはいえない体型です。
メイクと自身の表現力で、神秘的でミステリアスな雰囲気に仕上げたセルフプロデュースの力。
こうして彼女は唯一無二の存在として、世界で活躍する日本人女性モデルの先駆者となりました。
また1973年から1986年に渡り、資生堂と専属契約を結び、特にセルジュ・ルタンス氏との作品では芸術的な「美」を国内外に発信していきました。
セルジュ・ルタンス氏曰く
「彼女は大人の顔をした少女」だったとのこと。
少女のような好奇心を持ち続け、
その後はモデルだけにとどまらず、舞台・映画・ダンス・デザインの分野にも活動の幅を広げていきます。
後年は自らを「ウェアリスト(着る人)」と名乗り、これらの芸術と自らの身体とが交錯する表現を展開し、「着る」という概念を体現しながら模索し続けていきます。
2007年8月14日。
57歳という若さで急逝するまで、「私は私」という確固たる軸を持った姿を見せてくれた人生でした。
※生前最後の撮影写真
母校の小学生への授業の中での言葉。
「洋服として売っているもの。それが洋服なんだと思っているけど、本当は何で着れるかもしれないし、もしかしたら身体が私たちを着てるかもしれない。心が身体を着てるのかなとも思う」
数えきれないほどの服を着続けた彼女が、布と糸で作られたものだけではなく、物質・空気・水などありとあらゆる全てを「着る」ことを探究した結果、たどり着いたかもしれない答えが何だったのかと、早すぎる別れが惜しまれてなりません。
※画像は全てPinterestからお借りしました。